
↑ 伊号第一五潜水艦(伊号第二五潜水艦の同型艦)
こんにちは。村上です。
本日9月9日は、菊の節句、重陽の節句、救急の日、世界占いの日、チョロQの日、吹き戻しの日、カーネルデー、手巻寿司の日、
ロールケーキの日、栗きんとんの日、食べものを大切にする日、温泉の日等です。
ぞろ目ということもあって記念日が多いんでしょうか?いつもよりたくさんありますねw
そして、1942年9月9日に旧日本海軍によるアメリカ本土空襲が行われた日です。
<空襲計画>
太平洋戦線において各地で敗北を続けるだけでなく、本土に対する数度にわたる攻撃を受けたことによるアメリカ国民の士気の低下を危惧したアメリカ海軍は、1942年4月に、航空母艦搭載機のアメリカ陸軍航空隊のノースアメリカンB-25爆撃機による史上初の日本本土空襲(ドーリットル空襲)を行い、アメリカ本土上陸の恐怖に慄くアメリカ国民の士気を鼓舞すると同時に、各地で勝利を続ける日本に対して一矢報いることに成功した。
開戦以来連勝を続けている最中に突然の本土空襲を許し、面目を潰された日本海軍令部は、これに対抗して急遽巡潜乙型潜水艦「伊号第二五潜水艦」(以下伊25とする)に搭載されている零式小型水上偵察機によるアメリカ本土への空襲を計画した。
なお日本海軍令部は、日本陸軍部隊の上陸に対する対応を整えつつある生産施設や都市部を避けるという理由と、少量の爆弾でも延焼効果が期待できるという理由から、空襲の目標をアメリカ西海岸のオレゴン州の森林部と位置づけた。これは同州を縦断するエミリー山脈の森林に焼夷弾により山火事を発生させ、延焼効果により近隣の都市部に被害をあたえることを目的としていた。零式小型水上偵察機は通常装備は機銃だけで爆弾等を搭載できないが、この計画に合わせて、急遽焼夷弾2発を搭載するように改造された。
<1回目の空襲>
アストリア市の海軍基地への攻撃を終えて7月11日に母港である横須賀港へと戻った「伊25」は、1ヶ月あまりの休暇を経て、8月15日に再び横須賀を出港。アリューシャン列島をかすめて9月7日にオレゴン州沖に到着した。
天候の回復を待ち沖合いで2日待機した後、9月9日の深夜に空襲を決意し、田上艦長ら搭乗員が見守る中、藤田信雄飛曹長と奥田兵曹が操縦する零式小型水上偵察機は76キロ焼夷弾2個を積んで太平洋上の「伊25」を飛び立った。目標地点である太平洋沿岸のブランコ岬に到達してから内陸に進み、カリフォルニア州との州境近くのブルッキングス近郊の森林部に2個の焼夷弾を投下し森林部を延焼させた。地上からの砲撃も戦闘機の迎撃もなく無事任務を遂行し、沖合いで待つ「伊25」に帰還した。
なお、実は藤田機は空襲を終えて「伊25」に帰還すべく飛行中に、オレゴン州森林警備隊の隊員であるハワード・ガードナーによって発見されアメリカ陸軍に通報された結果、アメリカ陸軍航空隊のP-38戦闘機が迎撃に向かったものの、防空体制の不備により発見されることはなかった。また、突然の空襲を受けて、陸軍や地元警察が沿岸地域を徹底的に捜索した。なお、藤田機の帰還後、「伊25」は沿岸警備行動中のロッキードA-29ハドソン哨戒爆撃機に発見されて攻撃を受けたが、損害は受けなかった。
<2回目の空襲>
2回の空襲は、20日後の9月29日の真夜中に行われ、藤田機は同じく76キロ爆弾2個を再びオレゴン州オーフォード近郊の森林部に投下森林部を延焼させ、「伊25」へ戻った。なお、2回目の空襲の際も地上からの砲撃も戦闘機の迎撃もなく無事任務を遂行し、無事に沖合いで待つ「伊25」に帰還した。「伊25」には予備の爆弾がまだ残っていたものの、前回の空襲の結果、太平洋沿岸部の警備が厳しくなっていたことから、2回目の空襲を最後に空襲を取りやめ帰還することとなった。
<アメリカの被害と反応>
2回の空襲とも「アメリカ本土爆撃」というシンボル的効果を狙ったものである上に、森林を爆撃することによる延焼被害を狙ったものであり、直接的に人的被害を出すことを目的とした空襲でなかったこともあり、軍人や民間人に死者は発生しなかった。また、9月初頭と爆撃前日に降り続いた雨により湿気があったためもあり、空襲による森林の延焼は本格的な消火活動が行われる前に自然消火するなど、空襲による直接的な被害は大きなものではなかった。
しかし、アメリカ史上初の敵軍機による本土空襲に驚いたアメリカ政府は、太平洋戦線における日本軍に対する相次ぐアメリカ軍の敗北に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与えないために、軍民に厳重な緘口令を敷きこの空襲があった事実を極秘扱いにした。
しかし、まもなくマスコミに知れ渡ることになり、当時太平洋戦線で負け続きであったアメリカ国民を大いに怯えさせ、この空襲以降、西海岸地域を問わずアメリカの全ての沿岸部における哨戒活動及び防空が厳重なものとなり、併せてサンフランシスコなどの西海岸地域の大都市には、日本軍機による空襲に備えたシェルターや防空壕が急遽設置されるようになった。
またこの空襲作戦の過程においては、日本人移民や日系アメリカ人の関与、協力などは何もなかったにも拘らず、人種差別的指向を持っていたフランクリン・ルーズベルト大統領の命令により1942年2月からハワイを除くアメリカ全土で行われていた日系人の強制収容を正当化する口実の1つになった。