グラーフ・ツェッペリン

 

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こんにちは。村上です。

本日、8月19日は「バイクの日」「俳句の日」です。

そして、1929年8月19日にLZ127が霞ヶ浦航空隊に寄港した日です。

LZ127は20世紀初めに登場した一連のドイツ巨大飛行船のひとつで、愛称は「グラーフ・ツェッペリン」です。

全長236.6メートル、最大体積が105千立方メートル。浮力には水素、動力にはブラウガスを使い、

5基のマイバッハ製550HPエンジンを搭載し、60メートルトンの荷重を運搬可能な当時世界最大の巨大飛行船でした。

1929年8月、LZ127は完全な地球一周という思い切った冒険へと出発した。

この「空の巨人」の増加する人気のおかげで、ツェッペリン社幹部のフーゴ・エッケナー博士は、

スポンサーとなる企業を容易に見つけることができた。その出資者の中には、世界一周の旅をレイクハーストから

正式に出発するよう求めた人物である。アメリカ出版会の大君君ウィリアム・ランドルフ・ハーストがいた。

その年の88日にLZ 127は出発、大西洋を横切ってツェッペリン号の故郷であるドイツのフリードリヒスハーフェンへと飛行した。

フリードリヒスハーフェンで燃料を補給した飛行船は、広大シベリアを横断して東京へ向かう無着陸飛行を行った。

エッケナー博士は、彼らが上空を飛行してきたシベリアのいくつかの土地は、

近代の探検家達からも発見されたことが無い場所であると信じた。

LZ127が霞ヶ浦に寄港したときは、上野から土浦への臨時列車が運行されるなど東京からも見物客が押し寄せ、

観衆は30万人に及び「君はツェッペリンを見たか!」という新聞の見出しが流行語になったと言われている。

この当時、霞ヶ浦航空隊には第一次世界大戦・ヴェルサイユ条約に基づくドイツからの戦利品である飛行船用の巨大格納庫

があり、湖畔にあるため見晴らしがよく、風も穏やかで航行の条件がよかったことから寄港地として選定されたという。

この格納庫は戦後解体されたが、飛行船飛来記念碑の東南東にあった。

5日間東京にとどまった後の823日、グラーフ・ツェッペリンは初の太平洋横断飛行に出発した。

そしてサンフランシスコの上空を通過して南に向かい、ロサンゼルスのマインズ・フィールドに到着した。

これはあらゆる無着陸太平洋横断飛行の最初のものであり、その飛行距離は5,998マイル(9653 km)、

飛行時間は3日に及んだ。アメリカ合衆国を横断する最後の行程はシカゴを通過して

829日にレイクハースト海軍航空基地に至る2,996マイル(4,822 km)の旅で、所要時間は2日間だった。

この船旅は、全体で21日間と5時間31分を要した。最初のフリードリヒスハーフェンからレイクハーストまで移動し、

 そこから出発地に戻った最後の旅行までを含め、飛行船は491618キロメートル(30831マイル)を飛行した。

出発地のレイクハーストからレイクハーストへ戻った間の距離は、31400キロメートル(19500マイル)であった。

なおこの船旅の料金は一等席で9000ドルもしたそうである。

乗組員の中にはハーストの客人である、新婚の北極地方探検家ジョージ・ヒューバート・ウィルキンスとスザンヌ・ベネットがいた。

この旅行が彼らへの結婚祝いのプレゼントだったのである。

翌年、飛行船はヨーロッパ周辺で数多くの旅行に着手、19305月には南アメリカへの周遊にも成功し、

大西洋を横断する最初の飛行船航路を正式に開く決定打となった。船は1931年に北極への調査飛行という、

もう一つの壮大な目的地を追った。これはツェッペリン伯爵がそれより20年も前に夢見ていたことだったが、

当時戦争が起こったためその時は夢を成し遂げられなかった。

世界恐慌が始まったばかりの193310月、グラーフ・ツェッペリンはシカゴ万博に姿を現した。

この当時は飛行機との競争が大きくなっていたにもかかわらず、LZ 1271936年まで毎年増え続ける旅行者や手紙を、

大西洋を越えて運送したのである。

 エッケナー博士は同じツェッペリン号の別の船舶で成功を収めたLZ 127を補うとして、LZ 128の開発を計画した。

しかし、1931年にイギリスの旅客飛行船・R 101の悲惨な事故が起こったため、

ツェッペリン社は水素で満たす飛行船の安全性を再考せざるを得なくなり、

また新計画のため飛行船の従来の設計も捨て去らなければならなくなった。

最終的に「ヒンデンブルク」と名付けられることになるLZ 129は、ツェッペリン社の技術をかなり増進させたであろう飛行船で、

船内をヘリウムで満たすことが意図されていた。しかし、アメリカ合衆国から出されていた禁輸令で、

飛行するのに必要であった大量のヘリウムが入手できなかったため、宿命的にも水素を使用する設計へと転換されたのである。

ヒンデンブルク号爆発事故後、飛行船の安全性に対する国民の信頼は打ち砕かれ、

水素で満ちた飛行船で乗客を運ぶことが許容されなくなってしまった。LZ 127は事故の1ヶ月後にその役目を終え、

博物館に収蔵されることになった。その後LZ 127は第二次世界大戦の勃発と共にその生涯の幕を下ろす。

19403月、ナチ党のドイツ空軍元帥であったヘルマン・ゲーリングは、残るすべての飛行船の破壊を命じ、

アルミニウム製の部品をドイツ戦争産業省へと供給した。

 

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